マリールイズとは

● コンセプト

マリールイズ その名前こそが誇りです。

「近代美容の母」と称えられた初代マリールイズ。
宮廷美容師として各宮家に仕え、美容業界として初の藍綬褒章を拝受するなど、その功績は今なお高く評価されています。以来、マリールイズのスタッフは、初代の美に対する真摯な姿勢を受け継ぎながら、"伝統に培われた品格のある美しい花嫁姿と時代のニーズを反映した新しい感性の調和"をモットーに、高度な技術と美への厳しい基準を追求し続けています。
初代マリールイズ(MarieLouise)

マリールイズの歩み。

創設者である初代マリールイズは、英国公使館付武官である父と、母、相原美奈の長女として生まれました。日本に生まれながら、父の祖国イギリスの文化と日本文化に触れて育ちます。叔母の養女となってからはフランスへ渡り、美容に関する技術を取得し、審美眼を養うことになります。

礼節と技術の伝承。

異国の文化を広く学んだマリールイズは、帰国後、宮廷服装の顧問係として活躍しながら、日本で初めての美容学校を創設し、常に日本人が美しく見えるためのスタイルを追求。当時、流行りはじめた洋装とともに、世界に誇れる文化として和装の美しさも提案し続けました。

和裝の美しさは、精神の美しさ。

マリールイズはそう考え、後進を育成します。その人本来の美しさを引き立てる髷や鬘の工夫、白粉に替わる水化粧で、自然な美しさを引き出すといった新しさを取り入れました。

日本初の結婚式場へ。

1947年「明治記念館」創業以来、美容室としてマリールイズがトータルウエディングをサポートして参りました。さらに、1991年より、日本で初めての総合結婚式場「目黒雅叙園」の美容部門を担当。多様化するウエディングスタイルに対応し、お支度をさせていただいています。

時が流れ、どんなに時代が変わっても私たちは自信を持って花嫁様のお支度をさせていただきます。伝統の形はしっかりと残しながら、新しいものを取り入れる柔軟性を大切に。
そう、それは、明治という時代から、西洋文化を熟知しつつ、日本女性を美しくし続けた初代マリールイズのように・・・。

 

私たちスタッフは、マリールイズの名のもとに、美容のプロとしての意識を強く持ち、晴れの日をお手伝いさせていただきます。

● マリールイズについて

  マリールイズ女史年譜及び事業100年の歩み
MarieLouise

株式会社美容マリールイズは2012(平成24)年1月、創業100周年を記念し、マリールイズのルーツを辿った 「日本近代美容の母 マリールイズ ―私の描いた肖像画― 山吉美奈子著」を女性モード社より刊行しました。
刊行直後、2012年共同通信社 報道写真家沼田清氏から、明治大正時代の新聞のデータベースや他の資料等による新事実が提示されましたので、現時点で明確になりました事柄を新たに年号日付等沿えて記載しています。さらに2016年上野邦子氏の「新聞報道に見る束髪文化」研究論文に依って判明した事柄も加筆しました。両氏には深甚なる謝意を表します。


・1875(明治8)年11月29日 誕生
初代マリールイズ(当初表記は「マリー・ルウヰズ」)誕生。
本名・相原美禰は、父、英国公使館付武官 Alexander James Aberdein(1867・慶応3年2月来日) 母、相原美奈の長女として生まれる。 父の亡くなる10歳まで麹町の公使館(現在の英国大使館)にて育つ。

・1891(明治24)年
美禰を養女に欲しいとパリより叔母(父の妹)が来日。

・1892(明治25)年6月27日 渡仏
マリールイズ17歳、叔母の養女となるため、4代目駐日特命全権公使ヒュー・フレイザー夫人メアリー・フレイザーに同伴され渡仏、パリにて暮らすことになった。
→6月28日付読売新聞に「英国公使の出発 フレザー氏は賜暇(官吏の有給休暇)を以って帰国することとなり昨日午後一時新橋発の汽車にてその途に就けり」黒田伯爵(清隆二代目首相)他政府高官見送る。船は横浜発。
・1894(明治27)年
日清戦争勃発、兄が亡くなり、日本にいる母と病身の妹を養うためマリールイズは美容術にて身を立てることを決意した。メゾン・ポット美容学校、ラ・モット美容学校(1900年設立)にて美容術、つけ毛、鏝(こて)、美顔術、化粧法、化粧品製造その他を学ぶ。両校の講師に就任するかたわら、一流の美容師として通用するよう、美容技術の研究に情熱を注いだ。この間、マルセル・グラトーより直接マルセル・ウェーブを習う。

・1911(明治44)年11月15日 帰国
初代駐仏特命全権大使 子爵 栗野慎一郎夫妻に伴われ帰国。
マリールイズ36歳、マルセル・アイロン4挺 仕事用の化粧品と道具一式を携え19年振りに故国の土を踏んだ。
→11月15日付朝日新聞に栗野大使の「本日帰京の際は、、、」という出迎えお礼の広告あり。
・1912(明治45・大正元)年2月 赤坂田町で開業
赤坂田町(現在の赤坂から溜池に向う東側の町屋が赤坂田町)に美容所を開設。
栗野大使の計らいで、宮内省を通じ当時の宮家皇族十四家へ上がり、日本で初めての西洋美容を奉仕するかたわら、洋装に関しては着装や平時の帽子の被り方にいたるまでアドバイザーとしての役割を果して行く。

同年、ルイズ髷を発売
マリールイズは、日本人の長い髪の洗髪を楽にするために髪を切ることを提案。ルイズ髷という現在のヘアピース、つけ毛を考案製造し特許を取得する。上流社会の夫人たちは便利のよいこの髷を沢山持ち、和風や洋風に使用。

→1915年7月15日付読売新聞「束髪の付髷 ルイズ嬢の新案」として掲載。良いものだという記述の後、「1番小さくて安いものが一圓十銭するというので平民的流行には少し不向きだ」とある。 →1922年6月22日付読売新聞
尚「ルイズ髷を発売してから満十年になります」という広告が掲載されている事実から、ルイズ髷は明治45・大正元(1912)年にはすでに発売されていたと思われる。(上野邦子氏「新聞報道に見る束髪文化」論文による指摘から)

・1913(大正2)年
西洋ものの芝居が初上演
帝劇にて「トスカ」(トスカ・貞奴・スカイルピア・幸四郎)
そもそもはオペラではなく、パリでサラ・ベルナールの上演のために書き下ろされたもの。西洋の風俗が分からないため、かつら・衣装・着付けの指導顧問に、マリールイズが招かれ指導に当たる。
→6月6日付読売新聞
「今度帝劇のトスカのかつらや着付け万端の顧問に当ったマリールイズ女史、、、」
→6月12日付読売新聞「日比谷・美粧倶楽部(磯本峰子)に洋風の最新式を伝えるために、世界流行の本場生粋の巴里っ子で然も日本の土地にも長き親しみがあるマリールイズ女史を招き、、、」
・1915(大正4)年2月20日 巴里院開業
日本初の本格的な西洋美容院「巴里院」を麹町区日比谷有楽町1丁目3番地に創設。
→2月20日付読売新聞と東京日日(のち毎日新聞)「有楽町(日比谷大神宮裏門前)に壮麗なる一廓を構えた巴里院を設立、二十日に開院式を挙行。日比谷大神宮挙式、帝劇観劇に最も適当」 →2月22日付朝日新聞と時事新報「赤坂溜池に於いて美顔術治療所を独営しつつありしが事業の隆盛につれ今回合資組織に変更し事業を拡張の上丸の内有楽町(日比谷大神宮裏門前)に壮麗なる一廓を構え巴里院と号して二十日に開院式を挙行したり」
巴里院は一般美容、婚礼美容、美顔術、美爪術等、さらに化粧品も製造販売する日本初の本格的な総合美容院でもあった。(上野邦子氏「新聞報道に見る束髪文化」論文による)華族、外交官夫人、上流階級夫人が顧客となる。


同年、同所に「巴里院講習所」を設立。
併せて女性の経済的自立の必要を感じ、美容技術で身を立てる女性を育てる。

又、パリで修行したマルセルウェーブを日本人に似合うように改良しながら、皇族方の髪に鏝(アイロン)を当て、マルセルウェーブを紹介していく。
これはマリールイズの得意分野であり、皇族、華族から次第に流行し、一世を風靡した。その後も次々と洋風の髪型を創作し “行方不明” “オールバック” “片耳隠し” 等々、流行していった。さらに、日本では初めてとなる西洋の化粧下クリーム(MLクリーム)そしてコールドクリームなどの化粧品製造にも一層精を出し、数々の化粧品を世に出した。


・1915(大正4)年7月1日
巴里院用特製品として美顔水、美顔白粉、白色美肌水、美顔ユーマ、美顔石鹸、大正5年3月からは「ルヰズクレーム、美顔白粉下」(ML化粧下クリーム)を発売 「婦人画報」(107号)の広告より。 又、同誌は震災まで掲載。(上野邦子氏「新聞報道に見る束髪文化」論文による)

・1916(大正5)年
マリールイズ、向井松三郎を養子にする

・1917(大正6)年
→9月15日付朝日新聞「評判の巴里院」の広告
・1918(大正7)年
巴里院隆盛にて増築する。
→2月17日付朝日新聞「増築完成(地図入り)」の広告 三角地帯の南側で隣地に拡張
・1919(大正8)年2月10日~12月2日渡仏
第一次大戦終結3ヵ月後、マリールイズは一年間の予定で再びパリへと赴き、最新美容法の視察と化粧品の研究等に没頭する。
→1月28日読売新聞「内外貴婦人に美容術を施して評判の巴里院長ルウヰズ嬢来月三島丸でパリへ夫人を美化するすべてを研究した、、、云々」 →2月7日付読売新聞「ルウヰズ嬢(顔写真付き)、美容法研究に 2月10日、三島丸で巴里へ出帆。ラモット氏からの勧誘、西園寺公爵(公望(きんもち))からも慫慂(しょうよう)され決行」 →11月30日付朝日新聞広告「来る(12月)2日、フランス客船、メール・アンドレルボン号にて帰朝候につき、当日は臨時休業仕候」→12月2日付朝日新聞「帰国お出迎え御礼広告」
・1921(大正10)年 「巴里院子供洋服部」帝国ホテル前に出店
巴里院内にあった子供洋服部を姉妹店として独立 →3月17日、7月7日 朝日新聞にてイラスト入り広告掲載。最先端の子供流行服を先導していった。(上野邦子氏「新聞報道に見る束髪文化」論文による)
・1922(大正11)年
→11月12日付朝日新聞広告「改造せられた巴里院 新設出張所に東京會舘、鎌倉六地蔵前」 →11月12日付読売新聞「改新された巴里院 一度衰微した巴里院は、清水要之助、岩崎重次郎、小島栄次郎氏などが幹部となってマリールイズ嬢を助けて株式会社として建物も内容も改新してさき頃開業しました」※経理担当者の巨額の横領発覚後の対応 →11月16日付読売新聞「面目を更めた巴里院洋服部 合資会社マリールイズ洋服店、天絃堂主の中村一六も出資、後援者に西村伊作、与謝野寛(鉄幹)晶子夫人、共同経営者に横浜のクン・コモール商会」
・1923(大正12)年
9月1日関東大震災により巴里院と帝国ホテル前にあった婦人子供服及びアクセサリー等を扱う巴里院姉妹店も焼失。その後、マリールイズは自宅のあった麻布区霞町6番地に「マリールイズ化粧院」「マリールイズ美容講習所」を開設し、技術者に徹することを決意。
巴里院はマリールイズの薫陶を7年にわたり受け、その才能を評価していた鎌倉の美容家・早見君子氏に譲渡した。マリールイズ製造の化粧品等は巴里院でも販売。ちなみに1929(昭和4)年4月9日付読売新聞に「美容術師は職業婦人の女王 どこで学ぶがいいか 巴里院美粧結髪学会 すでに出した卒業生二千名に上り、、、。」とあるが1923(大正12)年迄がマリールイズの出した卒業生である。

・1924(大正13)年1月26日
皇太子(後の昭和天皇)ご成婚。マリールイズが妃殿下(のちの香淳皇后)のお仕度を承る。
ちなみに1912年より宮家皇族のご成婚時のローブデコルテは、全てマリールイズの手によって仕度されている。

相原松三郎と千葉益子(相原ます)婚姻

12月21日 相原松三郎 日本郵船筥崎(はこざき)丸にて渡仏 同船者に岡鹿之助画伯と石黒敬七氏等。翌年、モガ通りに「メゾン・ルナール」という日本美術雑貨店を経営。(石黒敬七氏巴里週報による)

・1925(大正14)年
「マリールイズ化粧院」
四谷店 四谷左門町59番地 四谷左門町電停前分院を開業。
新橋店 芝口ビルディング 
化粧品製造販売事務所 麻布霞町17番地
(帝都復興史 第一巻 広告掲載より)

→3月13日付朝日新聞
マリールイズ化粧院見習生募集広告 四谷左門町電停前同分院

・1926(大正15)年10月
松三郎 病気の為帰国 1929(昭和4)年2月没

・1927(昭和2)年
「マリールイズ化粧院」京王閣内玉川店開店 

・1929(昭和4)年 マリールイズ美容女学校誕生
東京府が従来の講習所を学校制度に改正したため、「マリールイズ美容女学校」が誕生、東京府知事認可となり法人となる。東京都麻布材木町8番地 本校 1ヶ年 講習科 4ヶ月

・1931(昭和6)年10月1日 マリールイズビル落成
麻布区六本木に地下1階地上4階総坪数1500坪の「マリールイズ美容女学校」を建設。
日本で初めて、また東洋でも最初の本格的な美容学校であった。
「マリールイズ化粧院」も併設。皇族用の貴賓室も設けられ、いつも皇族方の黒塗りの車が連なり、向いにあった六本木警察の警備も大変だった。

・1937(昭和12)年6月21日 世界一周の旅へ
マリールイズ 千葉益子両名は、実業振興会視察団の一員として、神戸港よりシャルンホルスト号(ドイツ客船)にて出港。上海、マニラ、ペナン、コロンボ、カイロ、ヨーロッパはジェノヴァに上陸後、ヴェニス、フィレンツェ、ローマ、ニース、モナコ、インターラーケン、フランクフルト、ベルリン、ミュンヘン、ウィーン、北欧行きを止めて巴里へ。岡鹿之助画伯駅迄出迎えてくださる。
ドーヴァ海峡を経てロンドン。各国駐日大使館で招かれたが、ロンドンでは吉田茂駐英大使の茶会に招かれる。アキタニヤ号にてニューヨーク、カナダ(ナイヤガラ瀑布)シカゴ経由、汽車にて米大陸横断、ロスアンジェルス、サンフランシスコ港より出帆、ハワイ(ハワイ在住のマリールイズ美容女学校卒業生と集う)、横浜港へ12月24日着。(マリールウヰズ美容女学校・同窓会誌に掲載された千葉益子の旅先からの手紙20信に依る)

・1939(昭和14)年9月1日
第二次世界大戦、ドイツがポーランドに侵攻して始る。

・1940(昭和15)年
パーマネントウェーブが国禁となり、新規の美容院出店も不可能に。やむなく美容学校を休校とする。

・1945(昭和20)年3月10日
東洋一を誇ったマリールイズ美容女学校は東京大空襲の戦火で焼失。
8月15日終戦。

・1947(昭和22)年
千葉益子が、全日本美容連盟副理事長に、あわせて東京都美容師組合長に就任。戦後の美容業界発展のために努力する。

憲法記念館改め「明治記念館」が誕生、千葉益子は美容部門を担当。

・1948(昭和23)年
新宿御苑前に「財団法人マリールイズ美容学院」設立。
美容資格はこの年より都道府県にて国家試験制度となり、免許制となる。
東京都美容師資格取得第1号は相原美禰(マリールイズ)、第2号は相原ます(千葉益子)に与えられる。

同年「株式会社美容マリールイズ」を設立。

・1950(昭和25)年
第三皇女孝宮和子内親王殿下ご婚儀、千葉益子がお仕度を承る。

・1952(昭和27)年
第四皇女順宮内親王殿下ご婚儀、千葉益子がお仕度を承る。
皇太子明仁親王(今上天皇)立太子礼。この時より皇后陛下の美容担当は女官の手を離れ民間人に降り、「美容マリールイズ」が担当。
千葉益子は皇后陛下付美容師となり、結髪はマリールイズ記代子(二女)が担当。

・1953(昭和28)年
マリールイズはパリ美容の最高団体「サークル・デ・アート・エ・テクニク・ド・ラ・コアフュール・ド・パリ」より、日本にフランス・パリの美容を普及させ、その基礎を築いた功績を表彰される。

・1956(昭和31)年
マリールイズは日本の美容界の発展に多大な功績を残したとして、美容界初の「藍綬褒章」を受章。
全美容業界の快挙となり、美容業の社会的地位の基礎を確立した。

同年12月27日、マリールイズ81歳にて逝去。

・1960(昭和35)年
第五皇女清宮内親王殿下ご婚儀、マリールイズ昭子(長女)、マリールイズ記代子がお仕度を承る。

・1963(昭和38)年
千葉益子、藍綬褒章受章。

・1964(昭和39)年
常陸宮殿下ご婚儀に際し、華子妃殿下のお仕度を、マリールイズ昭子、マリールイズ記代子、マリールイズ千枝子(姪)が承る。

・1967(昭和42)年
美容業界に於ける花嫁着付の第一人者として、その名(個人名としては初)を冠した花嫁着付コンクール「千葉益子賞」(百日草主催)が設定された。

・1970(昭和45)年
千葉益子、勲五等宝冠章叙勲。

・1971(昭和46)年6月16日
千葉益子73歳にて逝去。正六位に叙せられる。

9月、天皇皇后両陛下、お揃いでは初めての御訪欧に際し、マリールイズ記代子が侍従職嘱託(団長は総理大臣)として皇后陛下に随行する。

・1975(昭和50)年
天皇皇后両陛下御訪米に際し、マリールイズ記代子、随行。

・1991(平成3)年
目黒雅叙園の美容部門をマリールイズ恵子(マリールイズ昭子・二女)が担当。年間婚礼1500組~2000組を担当。
明治記念館と合わせて、年間約4000組を担当した。

・1995(平成7)年
マリールイズ美容学院校長マリールイズ千枝子、東京都の名工に選ばれる。
ヘアデザイン協会副理事長に就任。

・2000(平成12)年
財団法人マリールイズ美容学院は、「学校法人マリールイズ学園・マリールイズ美容専門学校」となる。
マリールイズ恵子52歳にして東京都の名工に選ばれる。

・2002(平成14)年
マリールイズ恵子、職業訓練法人全日本婚礼美容家協会副会長に就任。

・2009(平成21)年
マリールイズ恵子、一般社団法人全日本着付け技能センター副理事長に就任。

・2012(平成24)年2月16日
マリールイズ創業100周年記念祝賀会を明治記念館に於て開催。
「日本近代美容の母 マリールイズ―私の描いた肖像画― 山吉美奈子著」刊行。
(発行日は2011(平成23)年12月27日・マリールイズの命日としている)

本著は、東京新聞・神戸新聞はじめ各地方新聞多数に紹介され、全都道府県立図書館をはじめ、主だった図書館で閲覧されている。
それ以前にマリールイズの父親に関する資料を蔵する横浜開港資料館は購入、配架して下さっていた。
―2016.8.30更新―